なぜ人は『汚い言葉を使うと云々…』と言いたくなるのか
2015/05/26
少し話題になっていたので便乗してしまった。
基本的にはしょうもない話。
汚い言葉は抽象的
まず、彼らは今になって急に湧いてきた主義ではない。
ネットでもちょくちょく見かけていたし、知り合いにもこの主義を持っている人がいる。
たしかに、汚い言葉の応酬によって本来されるべき議論の主旨を見失う、なんてことはよくある。
結果、あまり関係のない言葉の揚げ足取りに収束するのはあるあるネタだ。
なので、汚い言葉は何かを推進する上での効率化を妨げる要因になるだろう。
もう少し汚い言葉について考えてみたら、汚い言葉とは抽象的な言葉なのではないか。
と、いう結論のような納得点に至った。
抽象的であればあるほど、互いの脳内で具体化したモノのズレが大きくなる。
また感情に起因するような暴言の類は、もともと言葉に置き換えることが難しいのではないかと。
感情ってのはホルモン的な化学反応で自分で100%制御するものではないはずだ。
人間の源泉みたいなもんを大雑把に怒り、悲しみ、みたいな感じでマッピングしてるだけで本当はもっと複雑なものなのだろう。
感情を言語化で解消するなんて到底不可能なのは、なんとなく分かる。
『怒っています』と発声したところで怒り成分が完全にスッキリするなんてこともない。
なので、どうしてもバカ、クソ、死ね、カスといったような発音数が少ない叫び、雄叫び、威嚇に近い本能的な単語を選ぶ。
このような罵詈雑言は非常に複雑な感情を表現する氷山の一角にすぎない。
とても抽象的だ。
と、いうわけで表題のような彼らは正論を言ってる。
協調してなにかを遂行するためには各モジュールが何らかのメッセージを介した連携が必要になる。
怒りに任せてクソと発話する前に、自分の怒りはどのような葛藤から生まれたのか考えてみる。
考えられない余裕がないような状態の場合は考えてもどうしようもない状況なので本能に従った方がよさそうだ。
仕事を誰かに依頼して、○○して欲しかったのに、結果が△△になっていた。普通に考えたら○○になるだろう。
いったい何考えてるんだ。このク…
と、なる前に。
なぜこのようなことが起きたのか考える。
抽象的な表現を使って混乱させてないか、相手はなぜ△△を作ったのか、ひたすら具体化する。
そうすると、単純な連絡ミスや文書化の漏れやあいまいな表現、確認漏れ、といった小さい問題が出てくる。
じゃあ、これをどうやって解決してゆくか考えてる。
大分面倒だけど、繰り返しやってゆくのが最短なんだろうなと思う。
なので、『これはプログラムでやるべきことで、人間のやる仕事ではない』は汚い言葉というより多様な解釈を許す抽象的な言葉だった、というわけ。
エンジニア、プログラマーの立場からするとプログラムでできることはプログラムにやらせて、人間はより高次な問題に取り組むのが良いと思う。主語が大きいか。少なくとも自分はそう思ってる。
ここでの『人間のやる仕事ではない』のウラには『こういう煩わしい作業はプログラムにやらせて、他に取り組むべき重要な課題ができるようになりましたね!煩わしい作業に費やしていた1,2時間がなくなるわけだから、残業していた人は定時に帰れるし、より充実した生活がおくれるじゃないですか!やったね!』と、いう大変ポジティブな感情が乗っている。
なので、まったく汚い言葉だとは思っていない。むしろ共感されるだろうとすら信じてやまない。
ただ、その仕事を手でやっていた人間からすれば『我々の仕事が機械にでもできるなんて、まるで無価値のような言い草だな、なにくそ』と思うわけ。
そう、互いの解釈がズレていただけなのである。
『人間のやる仕事ではない』から2つの具体的な意味をそれぞれ見出したのだ。
なので、これで『いやー、これ人の手でやるの大変ですよね。。プログラムで自動的にやるようにしてみました!効率化の一助になれば嬉しいですー』と、でも付け加えておけばイイカンジに収まっていたのではないか。
汚い言葉は不要か
生産性を追求すると余計な感情は捨てて具体的に、論理的にコミュニケーションこそが至高だ。
と、なりそう。
ただ、個人的には全人類が汚い言葉を使わなくなってしまうと、表題のような人たちの快楽値や生きがいを損なうと思ってる。
なぜか、彼らは『汚い言葉を使うと善人ポイントのようなモノが減点されるゲームの世界』の中で生きているからだ。
ママ友などに代表されるマウンティング行動の一部門と考えてよい。
善人ゲームの世界では自分を基準に人を相対評価する仕組みになっている。
基本的には自分のさじ加減でゲームを調整できる。
汚い言葉の定義が存在しないことから、このゲームが主観にのみ依存する催し物であることがわかる。
汚い言葉の定義が存在しないので、全人類が汚い言葉を使わなくなったとしても、このゲームは終わらないだろう。
他人がどんな言葉で傷つくか分からない、という地雷原な世界観と一緒。
繰り返しになるが、善人ゲームのプレイヤーは消滅はしない。
ただ、汚い言葉が減少することで言語市場が縮小する。
言葉が意味ごとに均一化されてビッグブラザーがいたような素晴らしい世界に近づいてゆく。
このような世界になると、最早『汚い言葉を使うのは良くないよね』という主張そのものに価値がなくなる。
極端な例だが『人が生きるには空気が必要だよね』と主張している、と考えてもらうと分かりやすいかもしれない。
『あ、はい。』
と、なる。
汚い言葉という影があるおかげで主張は鮮やかなコントラストをみせてる。
全てが白になった世界ではその境界は存在しない。
5%の課金ユーザが気持ちよくなるために95%の無課金ユーザがいる。みたいなソーシャルゲームの世界と全く同じ構造なので、汚い言葉を使う善人ゲームヒエラルキーの最下層の人には感謝しよう。
そして『悲しむ』『憐れむ』『無視』といった具体的なアクションをしよう。
と、このような何かの現象を虫カゴのように閉じ込めて眺めるメタ飼育は、楽だし、簡単に強くなったような気分になれる。
たとえ誰かの虫カゴの中だろうが、最後まで生を感じていたいものである。